情熱シアター

中島 武志さん

未来のために、いまできることを。
「災害支援のプロを目指す人たちの支えになりたい」

困難な状況にいる子どもたちが本当の意味で自立するために、数字だけでは判断できない「自立」を目指す。

NPO法人 災害救援レスキューアシスト 代表理事
中島 武志 (なかじま・たけし)

1977年生まれ。2011年の東日本大震災をきっかけに自営業を辞め、テント生活をしながらボランティア活動に参加。その後も、災害が起きるたびに日本各地の被災地にて災害救援活動を続ける。2016年任意団体「要配慮者支援 レスキューアシスト」設立を経て、2019年「特定非営利活動法人 災害救援レスキューアシスト」代表理事に就任。ニックネームは武ちゃんマン。


このページでは、「困っている誰かのために、何かしたい」という志をともにする方々の、活動に対する熱い思いをご紹介します。

今回リモートインタビューでお話を伺ったのは、特定非営利活動法人「災害救援レスキューアシスト」代表の中島武志さん(通称:武ちゃんマン)。その活動は『あさイチ』や『明日へつなげよう』(ともにNHK)といった番組でも取り上げられ、明るくパワフルな「武ちゃんマン」の姿が全国に紹介されました。

それらの番組を観ていて印象的だったのが、中島さんが支援活動の際にいつも着ていらっしゃるベストです。協賛企業の大きなロゴが並んだベストは、まるでプロスポーツ選手のユニフォームのよう。今回のインタビュー時にも着ていらっしゃったベストには、中島さんの"プロとしての矜持"が込められていたのです。

リモートで取材に答えてくださった中島さん
リモートで取材に答えてくださった中島さん
第1章

これまでの経験が活きる場所。天命を感じたボランティア活動

──はじめに、現在のようなボランティア活動に携わるようになったきっかけについて教えていただけますか?

中島武志さん(以下、中島):
実のところ、東日本大震災の前まではボランティアにまったく関心がなかったんですが、東日本大震災が起こって、災害の様子を毎日テレビで観ていたら涙が止まらなくなって。その少し前に祖父が亡くなって、譲り受けていた遺産があったんですね。それを寄付しようと思ったのが始まりです。いろんな基金がありますが、具体的にどうやってお金が使われるのかわからなかったので......ちょうどその頃、自営業をお休みしていたこともあって、自分で直接持って行こうと思ったんです。

大雨で被災した茅葺き屋根のブルーシート張り替え作業
大雨で被災した茅葺き屋根のブルーシート張り替え作業

それで、2011年3月20日に石巻に入り......3日で帰ろうと思っていたんですが、結果的には約2か月半ほどテント生活をしました(笑)。僕は中学を卒業してから建築関係の仕事や調理師、介護職員といったいろんな仕事をやってきたんですが、それらの経験が災害時にはすべて役立つことがわかったんです。そのときに「あ、俺はこれをするために、いままでこんなにたくさんの仕事をやってきたのか!」と、天命みたいなものを感じたんですよね。

──石巻から戻って以降は、どんな活動をされていたのでしょうか?

中島:
災害が起きるたびに日本各地の被災地へ向かい、災害救助活動に参加していました。建築関係の仕事をしながら、お金が貯まったら被災地に行って、お金がなくなったら地元に戻ってまた働くというのをずっと繰り返していた感じです。そんななか、2016年に「プロのボランティアになります」と周りのみなさんに宣言して、募金を集めて立ち上げたのが、任意団体「要配慮者支援 レスキューアシスト」でした。

「すべての人の心(ハート)を楽にして一つにしたい」という思いが込められたロゴマーク
「すべての人の心(ハート)を楽にして一つにしたい」という思いが込められたロゴマーク
「すべての人の心(ハート)を楽にして一つにしたい」という思いが込められたロゴマーク

それまでいろんな災害の現場を見てきて、障がいのある方やお年寄りに対する支援が遅いということを実感して......72時間以内に支援に入らないと命に関わってしまうこともあるので、要配慮者を支援する団体を作ろうと思ったのが立ち上げの理由です。その直後に熊本地震が発災したので、現地入りして活動を開始したんです。

──それから2年間、現地に滞在しながら支援を継続されたとのことですが、熊本での活動で成果と感じたこと・課題と感じたことはそれぞれ何だったでしょうか?

中島:
成果は地元の若い子たちを育てることができたこと。現在レスキューアシスト熊本の代表をやっている吉住健一さんですが、彼が独り立ちできるようになったのが大きな成果でした。課題というか、後悔は......もっと仮設住宅の支援に力を入れられたらよかったということですね。もちろん、仮設住宅の支援に力は入れていましたが、思った以上に孤独死される方が多かったので、もっと住民の方たちと関われたらよかったという気持ちがあります。

レスキューアシスト 熊本代表の吉住さん(写真左)と
レスキューアシスト 熊本代表の吉住さん(写真左)と

──熊本から関西に戻ってきたところで大阪北部地震が発災して、再び支援に向かうなかで、熊本での経験がとくに活かされたと感じたところはどこでしょうか?

中島:
(屋根などへの)ブルーシート張りですね。熊本での2年間、ずっとブルーシート張りを続けていたので、ノウハウが蓄積されて、いろんな技術が身についていたんです。ブルーシート張りはかなりのリスクがあって、屋根から落ちてしまう人も結構いるため、大阪での最初の1か月はブルーシートを張りに行く家すべてを僕がチェックして、可否を決定しました。そのあいだにボランティアさんたちにもノウハウをつけてもらって、徐々に任せていくような感じでしたね。

危険を伴う被災した屋根の上でのブルーシート張りの様子
危険を伴う被災した屋根の上でのブルーシート張りの様子
第2章

プロとして、協賛企業の名前を背負うのは「当然のこと」

──そして、2019年には「特定非営利活動法人(NPO法人)災害支援レスキューアシスト」を設立されます。

中島:
基本的には任意団体のときと同じような内容ですが、「未来につなげられるような支援をしよう」と思ったのが設立の理由です。将来的には認定NPO法人にする予定で、次の世代に任せるための下地を作りたい。そのための法人化ですね。被災されて困っている方たちは、3か月を過ぎてもずっと困っているんです。そういった方たちを長期的に支援するためにも、給料を得て活動するプロのボランティアを育成しないといけない。自分のお金が尽きて、数か月で活動を切り上げないといけないような現状をなんとかしたいと思ったんです。

──その後、9月に令和元年房総半島台風(台風15号)が発災しました。

中島:
僕は水害があった佐賀県の大町町で支援活動をしていたのですが、千葉の被害が甚大だったため、急きょ千葉に入ってブルーシート張りを担当しました。最初は経験のある10名ぐらいで回っていたんですが、それだけだと人数が足りなくなってしまったので、JVOAD(全国災害ボランティア支援団体ネットワーク ※)を通して自衛隊に協力を求めたんです。それで、自衛隊の方たちにブルーシート張りの講習会を行なうようになりました。工具などを使わなくてもできるように、ブルーシートと防水テープだけでできる張り方を考案して、それをお伝えしたんです。

※ JVOAD事務局長・明城徹也さんのインタビュー記事「熊本地震から1年半〜改めて考える"中間支援のあり方"」はこちら

全国での防災・減災の講演会を通して、平時から備えることの大切さを伝える中島さん
全国での防災・減災の講演会を通して、平時から備えることの大切さを伝える中島さん
全国での防災・減災の講演会を通して、平時から備えることの大切さを伝える中島さん

──そういったブルーシートの張り方や、「アシスト瓦(段ボールで作る簡易的な瓦)」など、中島さんやお仲間のアイデアで考案されたものが、災害支援の現場で活用されているのですね。

中島:
「ボランティアさんたちがもっとやりやすい方法や、もっと安全な方法がないかな?」と、僕はずっとそういったことばかり考えているんです(笑)。できる範囲内で、最善策を考えるのは大事ですから。アシスト瓦にしても、ブルーシートをたくさん重ねて作っているのを見て、「ダンボールを中に入れたらいいんじゃない? それのほうが簡単じゃない?」って、すごく単純な発想なんですが(笑)。そうやって考えたものが改良を加えてどんどん進化し、テレビ番組で取り上げられた結果、全国に広がっていったんです。

各地から寄せられたダンボールとビニールシートで作られたアシスト瓦には、様々なメッセージも
各地から寄せられたダンボールとビニールシートで作られたアシスト瓦には、様々なメッセージも

──長期滞在して支援活動を続けるのも中島さんの支援の特徴だと思いますが、メリットや困難に感じることは何でしょうか?

中島:
メリットとしては、地元の住人さんたちに「経験のある団体が残ってくれている」と安心してもらえること。それに、新しい力を育てることができますよね。デメリットは、滞在費や食費といったお金がかかってしまうこと。最初は注目されるので寄付金も集まりますが、4か月を過ぎたくらいからはお金がほとんど集まらないし、助成金もなくなってしまいます。ボランティア団体さんが活動を終えて帰ってしまう理由もそれが一番多いので......真如苑(※SeRVの母体)さんのように、注目されなくなった被災地にもずっと目をかけて、支援してくださる方たちには本当に感謝しております。

中島:
先ほどNPO法人設立の際に「未来につなげられるような支援をしよう」と思ったとお話ししましたが、このワッペンについても、僕らのような仕事を目指す人たちのために、すなわち、未来のためにやっています。というのも、プロのスポーツ選手はユニフォームにスポンサー企業を背負っていますよね。それと同じことで......僕はプロとして活動しているので、支援していただいている企業さんをアピールするのは当然のことですし、「プロのボランティアが活動している」と知っていただくことは、後進の育成にもつながると思うんです。

協賛企業のロゴが並んだベストに身を包む中島さん
協賛企業のロゴが並んだベストに身を包む中島さん
第3章

一番の理想は「災害支援団体が国に認められること」

──コロナ禍での支援スタイルは変わってきていると思います。7月に起きた熊本豪雨(令和2年7月豪雨)の被災者支援をするなかで、現地の人しかボランティアに参加できない時期もあったと聞いています。コロナによって変わってしまった支援の現況について教えていただけますか?

中島:
おっしゃる通り、全国から人を安易に集められなくなりました。これまで一緒に活動してきた技術を持った方たちというのは、日本のいろんな地域から集まっているんです。そういった方たちに声をかけることができないというのは大きいですね。それから、支援に来られる際にはPCR検査を受けていただくんですが、その費用がかかってしまう。ほかにも......いままではボランティアの方たちに「被災者の方たちと距離を近くして、いろんな会話をしてくださいね」とお願いしていたのが、いまは「作業のみに集中してください」と言わざるを得なくなってしまった。被災者の方たちに寄り添う支援から、作業が中心の支援になってしまっているんじゃないかなと思います。

──コロナ禍での後方支援を行なうために「Re: YELL Project(※)」を立ち上げ、若い人材を育てることにも注力されていたり、一般の方に向けて講習会を開いたりと、将来の「減災」につながる活動をされている中島さん。現在の目標や理想がありましたら教えてください。

中島:
理想はものすごく大きいのですが......とりあえず言いますね(笑)。「災害支援団体が国に認められるようになる」というのが一番の理想です。災害のたびに寄付金を集めるのは効率的ではないですし、今後しばらくは不景気になるでしょうから、お金も集まらなくなると思うんです。そういったなか、災害支援者が......例えば予備自衛官のような臨時的な公務員になれたらいいですよね。災害時にだけ臨時的な公務員として、給与の支払いを受けられる。そうすれば、それを目指す人がたくさん出てくるだろうし、災害支援のレベルも上がるんじゃないかと思うんです。

Re: YELLには、その名の通り「エールを再び」という意味が込められています
Re: YELLには、その名の通り「エールを再び」という意味が込められています

というのが一番の理想ですが、いまの僕にできることは、災害支援のプロを目指す人たちの支えになるということ。それが一番の目的、目標です。

※Re: YELL Project(リ・エールプロジェクト)とは
被災地で「地元のために何かしたい」と立ち上がった小さな団体や、長期災害支援をこれから始める人・団体に対し、持続的にお金・技術・ノウハウ等で後方支援をするプロジェクト

──それでは最後に、中島さんの原動力についてお聞かせください。

中島:
いまは、支援してくださる方たちの期待に応えるために動いています。ボランティアを始めた当初は自己満足が大きかったのですが、途中からは本当に困っている人たちのために役に立ちたいという思いに変わり、プロになったいまは......支援してくださる方たちのお金で動いているので、みなさんの「支援したい」という気持ちを背負って、もっと被災者の方たちの役に立たないといけない。プロとして期待に応えるのは当たり前なので、それに沿って動いているという感じですね。支援してくださるみなさんの思いが原動力になっています。


天命だと感じたボランティア活動を始めたことで、「神様はいるんだな」と実感する機会も増えたという中島さん。「『こういう人がいたらいいのにな』って悩んでいたら、次の日に見つかったりするんです」とお話しされるときの笑顔が印象的でした。

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