情熱シアター

鈴木隆太さん

「被災者とボランティア」ではなく
人同士として向き合える関係でありたい

「被災者とボランティア」ではなく人同士として向き合える関係でありたい

一般社団法人おもやい 代表理事、住職
鈴木 隆太 (すずき・りゅうた)

1995年阪神・淡路大震災を契機にボランティア活動を始め、「被災地NGO恊働センター」立ち上げに関わる。2004年新潟県中越地震や2016年熊本地震の復興支援活動を経て、2019年佐賀豪雨を機に武雄市民を中心に「チームおもやい」を立ち上げる。現在は一般社団法人としてボランティアの受け入れや支援活動を行っている。


このページでは、「困っている誰かのために、何かしたい」という志をともにする方々の、活動に対する熱い思いをご紹介します。

今回お話を伺ったのは、一般社団法人おもやいの代表理事をつとめる鈴木隆太さん。阪神淡路大震災で社会が抱える諸課題を目の当たりにして以降、30年ちかく災害復旧支援を中心に活動していらっしゃいます。曹洞宗の住職でもある鈴木さんは「復興とは何か?」をいまもなお考え続けているそうです。

鈴木 隆太さん
第1章

活動のきっかけは「阪神淡路大震災で突きつけられた社会が抱える課題」

──1995年の阪神淡路大震災からボランティアに関わってこられたとのことですが、最初のきっかけについて教えてください。

鈴木隆太さん(以下、鈴木):
阪神淡路大震災が起こった当時の私は浪人生として大学を目指していましたが、それまで見たことがないような災害が神戸で起きている現実を目の当たりしてすごくモヤモヤしたんです。それで、「自分になにかできることはないかな?」と思い、高校生のときに関わりがあった名古屋のNGO団体を通じて名古屋から現地に向かいました。当時はまだ"災害ボランティア"みたいな意識はなくて、どちらかというと"お手伝い"という感覚でしたね。

阪神・淡路大震災での活動の様子(1995年)
阪神・淡路大震災での活動の様子(1995年)

──"お手伝い"から始まったものの、結果的には9年ほど神戸でボランティア活動をされたそうですね。

鈴木:
そうなんです。大学受験はしましたが、神戸には多くの出会いがありましたし、社会に内在する課題を日々突きつけられている感じがして「大学に進学することよりも、ここで自分が学ぶことのほうが大事なんじゃないか」と思ったんです。

──神戸ではおもにどんな活動をされていたのでしょうか?

鈴木:
発災してから3か月ほど経って、避難所から仮設住宅へと被災者の方たちが移り始めましたが、そこで色々と問題が生じたんですね。設備が行き届いていなかったり、集会所のような機能もなかったのでコミュニティがつくられていなかったり。そういった諸問題を解決していくために、ボランティア団体を集めて情報交換しながら連携する「仮設住宅支援連絡会」が立ち上がり、そこの事務局員として働いていました。いろんな団体の活動をサポートしつつ、僕はどちらかというと国内外で起こった災害の救援に向かうことが多かったですね。

第2章

そこで暮らしてきた人がそのまま留まることをよしとする社会になってほしい

──神戸から活動の拠点を移したきっかけは何だったのでしょうか?

鈴木:
2004年に新潟県中越地震が起きて、現地に派遣されて活動をしていたんですが......都市型ではなく中山間地の災害なので、神戸の経験が活かせる部分もあるし、逆に神戸が学ぶこともあるんじゃないかと思ったんです。加えて個人的なことですが、そのときすでに佐賀のお寺に入ることがなんとなく決まっていたので......神戸よりも中越のほうが佐賀と地域性が似てるんじゃないか。だったら、ここに残って中越の人たちから学ぶべきことをできるだけ吸収したいと思ったのが理由です。

中山間地で起きた新潟県中越地震(2004年)
中山間地で起きた新潟県中越地震(2004年)
中山間地で起きた新潟県中越地震(2004年)

──中越で学んだこととは何でしたか?

鈴木:
中越だけでなく、神戸から続いているんですが「復興とは一体なんだろう?」と考えさせられました。中山間地にかぎらず、災害ってその時々の潮流を加速させる面があって。「このままいくと10年後に過疎になるだろうな」と思っていたところが、災害が起きたことによってその10年が一気に縮まってしまうんですよね。

復興を通じて地域おこしが成功した事例もあるんですが、その裏では過疎が進んでいるところもあって。そこで暮らしてきた方がそのまま留まることをよしとする社会にならないかなと思うんです。「その人が選択したことがそのまま良いとされてほしい」という自分の思いを復興と照らし合わせると、現状はカバーしきれていないんじゃないかと......いまもずっと考えています。

──その後、佐賀に移り住み現在「一般社団法人おもやい」で代表理事をつとめる鈴木さん。地域にとって、どんな団体でありたいと考えますか?

鈴木:
令和元年から立て続けに水害が発生している地域で暮らしている僕たち、そして近隣をはじめとする地域のみなさんに防災に関する講座を開いたり、さまざまなイベントを実施したりしているんですが......僕としては、地域にあるコミュニティのひとつみたいなイメージです。

自治会やグランドゴルフの集まりのような大小さまざまなコミュニティが地域に張り巡らされていて、僕らもそのひとつになることで、それまでどこにも繋がることができなかった人まで届くかもしれない。地域で取り残される人が一人でも減るように、幅広く活動していくというのを目指しています。ですから、僕自身は支援とかボランティアという視点で活動しているわけではないんです。

「おもやい」とは九州方面の方言で、「共有する」「一緒に仲良く使う」という意味
「おもやい」とは九州方面の方言で、「共有する」「一緒に仲良く使う」という意味
「おもやい」とは九州方面の方言で、「共有する」「一緒に仲良く使う」という意味
第3章

被災者の方たちから学んだ"人生"を糧に、向き合う人の一瞬一瞬を紡いでいきたい

──30年ちかく活動を続けてこられたなかで、ターニングポイントとなった出来事はありますか?

鈴木:
神戸、中越、佐賀、それぞれであるんですが、強いて言うなら神戸でのある出来事でしょうか。避難所となった学校の体育倉庫の裏にブルーシートを敷いて、外で避難生活をしていた車いすの男性がいたんです。「避難所の中に入ったほうがいいんじゃないか」と言っても「電動車いすは場所をとるから迷惑がかかる」と言うんです。

それからその人は「初めて会った人にこんなことをお願いするのは本当に申し訳ないんだけど」と泣きながらトイレの介助を頼んできて。僕は「こんなの全然幸せな社会じゃない」とすごくショックを受けたと同時に、普通に生活していたら接することがなかった地域における諸課題に直面したことで......この道を選ぶ結果になったんでしょうね。

──ずっと活動を続けてきた鈴木さんの原動力とは?

鈴木:
「つながり」なのかなあ。最初は被災者さんとボランティアさんという関係性で始まりますが、避難所に長くいると「おい隆太」とかってみんなに呼ばれるようになって、少し上の兄ちゃんに「飯行くぞ」って連れていってもらうようになるんですね(笑)。もうそのあたりから、僕としては"被災者とボランティア"の関係ではなくなって、"〇〇さんと僕"になっていくんです。

鈴木 隆太さん
鈴木 隆太さん

──きっかけは災害でも、つながっていくことで個人同士の関係になっていくのですね。

鈴木:
「ボランティアがどこまで関わっとんねん」みたいに思われるかもしれませんが、「僕はボランティアなので、ここまでしか関われません」っておかしいですよね? 人として全然向き合っていないですから。避難所で仲良くなったおばあちゃんが仮設住宅に引っ越していって、しばらくしてから「隆太、最近なにしてんねや。遊びに来い」って連絡してきて、その後もずっと関係が続いていたなか、「隆ちゃん、私の写真撮ってくれへん? 遺影にしたいねん」と言われて......ツツジが咲き乱れる時期に写真を撮って、データと印刷したものを封筒に入れて「これ持っておいてな」と渡したり。

そうやって"ひとりの人の人生"をいろんな方にずっと教えてもらっている感じがするんです。その一瞬一瞬を僕は紡いでいきたい。先ほどお話しした車いすの方もそうですが、神戸や中越で出会った人たちといまでもつながっていることが僕にとってすごく大事で、原動力になっているんじゃないかと思います。


「おもやいの樹」には「つながり」の言葉が茂っていました
「おもやいの樹」には「つながり」の言葉が茂っていました
「おもやいの樹」には「つながり」の言葉が茂っていました

被災者の方たちとの関係性について、ここには書ききれないほど多くのエピソードを語ってくださった鈴木さん。そのどれもがあたたかい心の交流に満ちていて、鈴木さんが原動力としている「つながり」の大切さを知ることができました。「支援」や「ボランティア」という言葉があまり得意ではないという鈴木さんの在り方に、それらの言葉が示す意味について私たちも改めて考えるきっかけをいただけた取材となりました。

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