特集 被災経験を風化させないために

被災経験を風化させないために

今回は、2015年9月10日に発災した鬼怒川水害から1年が経つ茨城県常総市の"今"をお届けします。

つくばエクスプレス、関東鉄道常総線と鉄道を乗り継ぎ、都心から約1時間余りで水海道(みつかいどう)駅へ。ここ常総市は、2006年に水海道市に石下町が編入して誕生しました。江戸時代末期に水運の要所として栄えたこの地は、今日では都市近郊型農業のほか、多くの日系ブラジル人が働く工業も盛んです。市内の看板やスーパーにはポルトガル語表記も目立ち、この地域がいくつものコミュニティで成り立っていることが分かります。

鬼怒川の堤防が決壊し、常総市に甚大な被害をもたらした
鬼怒川の堤防が決壊し、常総市に甚大な被害をもたらした
常総市地図

常総市の地図を確認すると、中央を南北に鬼怒川が流れ、東側の市境には鬼怒川と並走するように小貝川が流れています。その地形は、まるでふたつの川に囲まれた大きな中洲のようです。市街地の多くは平地であり、堤防が一旦、決壊すると、水の逃げ場はありません。一級河川の恩恵を受ける一方で、時として、氾濫する河川とどう向き合うかが、この地に住む人々にとって昔からの大きな課題でした。

茨城NPOセンター・コモンズの代表理事 横田能洋さん
茨城NPOセンター・コモンズの代表理事 横田能洋さん

鬼怒川、小貝川は過去にも大規模な氾濫を何度も起こし、大きな被害をもたらしてきました。
20年近く常総市で活動を続けている茨城NPOセンター・コモンズの代表理事を務める横田さんに話を伺うと、その際に浸水を経験した家屋は、建て替え時に床を上げるなどの工夫をしたそうです。ところが後に移り住んできた人たちの中にはそのような事情を知らない方も少なくありませんでした。今回の災害においては、その情報格差が、同じ地域で「被害を最小限に食い止められた家」「浸水により半壊・全壊した家」とを分けた一因になったそうです。被災を語り継いていくことが、いかに難しく重要であるかが分かります。

ボートで避難するケースも
ボートで避難するケースも

「今回の水害では常総市内が広範囲に浸水しました。ところが水が1日で引いたところもあれば3〜4日かかったところなど、被害状況はまちまち。床下で留まったところもありますが、床上まで浸かってしまい、半壊、全壊の指定を受けた家屋も数多くあります。リフォームで1000万円以上かかるケースなど保険がおりればまだいいですが、直せない場合は、住む家を求めて市外へ出ていかざるを得ない状況なのです」(横田さん)

また、行政が市内に仮設住宅を設置せず、市外の空き家などを"みなし仮設"として活用したこともあり、今回の災害では常総市の人口およそ6万人に対し、その3%に当たる2000人近くが市外へと避難したと言われています。人口が減れば、経済活動も停滞します。水害により商売が立ちいかなくなり、暖簾を下ろす店舗も続きました。特に大きな機械を必要とする個人商店、例えば豆腐店やクリーニング店の状況が厳しかったようです。かつては当たり前のようにあった暮らしが失われ、代わりにあちこちに存在する更地。住み慣れない土地へやむを得ず転居していった方々の辛さは計り知ることができません。

水害直後の状況
水害直後の状況

横田さんは「被災直後の応急期から復興期へとフェーズが移る時期が、非常に大事だった」と振り返ります。「浸水被害から数週間が経った頃、まだ風呂や台所は使えないとしても、様々な理由で避難所から自宅に戻る人たちが増えていきました。ただし行政は避難所に留まる人だけを被災者とみなし、自宅に戻った人たちを"被災者"から外します。食糧支援も、避難所にいる人たちだけが対象でした。」

そこで現地では、ボランティアが一軒一軒を訪ねて、生活インフラがどうなっているのかを調査しました。

「この家は台所やお風呂が使える」
「トイレが使える」
「足りないものは何なのか」

そうして在宅者の厳しい状況がデータにより浮き彫りとなったのです。このレポートにより、市役所も在宅者に支援の手を伸ばせるようになりました。

11月半ばには、常総市の災害ボランティアセンターが閉鎖されました。しかし実際には泥掻きや片付け、引っ越し、心のケアなど、様々なニーズが残っていたといいます。

「メディアの報道が落ち着いてくると、もう常総は大丈夫だろうというイメージが広がりはじめます。するとボランティアの姿もとたんに見えなくなり、被災者は孤立を感じ始めました」(横田さん)

当初は全国から多数集結したボランティアたち。そこにいきなり終止符が打たれた時の喪失感の大きさは計り知れません。数ヶ月にわたる復旧作業で心身ともに疲れ果てているなかで、愚痴を聞いてくれる人もいなくなり、被災者はいよいよ厳しい現実を直視することになります。そんな時こそ、ボランティアによる様々なケアが求められていたのかもしれません。横田さんは「いまだに、長く来てくれているSeRVなどの団体の存在はありがたい」と言います。

ぬくもりバトンプロジェクト
ぬくもりバトンプロジェクト

短期間で作られる復興計画には弊害も伴います。住民ひとりひとりの声が届きにくくなってしまうのです。
そういう声を拾う作業も、ボランティアが出来ることの一つです。
横田さんは、こうした声を一冊の本「ぬくもりバトンプロジェクト」にまとめました。

「皆さんが、どういう思いのなかで、どう避難生活を続けてきたのか。<避難先を転々とした><こういうことが辛かった>など、ここには110世帯の生の声が詰まっています」(横田さん)

被災者による実体験だからこそ生きた「教訓」となるのです。「あの地区はこんなに大変だったんだ」とお互いに知ることができます。
決してひとりではない、みんなで前を向いて歩を進める。それが街の心の復興に繋がるのです。

<コラム>

横田さんは、常総市内に住む外国人の子どもたちの就学・就労を支援する活動を7年前から続けています。

この地域では大手工場で働くブラジル人労働者が数多く生活していますが、リーマンショックをきっかけに仕事が減り、そのしわ寄せが子どもたちにまできています。

たすけあいセンターJUNTOS 写真1

経済的理由でブラジル人学校に通うこともできず、また言葉の問題で公立学校の授業についていくのも困難です。このような社会に出ていきにくい状況をなんとか改善しなければと、横田さんは仲間とNPO団体を運営しているのです。

インタビューにうかがった「たすけあいセンターJUNTOS」は、横田さんのNPOが学校として活用する民家です。水害により改修費を捻出できなかったオーナーが無償提供してくれたこの家屋を、再建させたのはボランティアの力でした。材料費は寄付で賄いましたが、泥出しからはじまり、床を剥がして、壁を剥がして、消毒をして......

「難しいところだけをプロに頼み、あとはほとんどボランティア。おかげで通常の工事費用の3分の1から4分の1程度に抑えられました」(横田さん)

たすけあいセンターJUNTOS 写真2

横田さんはこのボランティア主導で民家を改修する成功例を広げていきたいとしています。
すでに隣街を含めて、ボランティアが修復に入っている物件が数件あるそうです。行政機関、銀行とも連携しながら、常総市内の空き家の有効活用を進めるべく、横田さんは今日も奔走しています。

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