特集 "復興の槌音"に耳をすまして ~ネパールの今

"復興の槌音"に耳をすましてネパールの今

ネパールを取り巻く環境

2015年4月25日ならびに同年5月12日に発生した大地震によって甚大な被害を受けたネパール。その後、あの美しかった古都に、復興の槌音は響いているのでしょうか。私たちは、同年7月にネパールを訪ねて実地調査するとともに、11月中旬に現地カトマンズ在住の方からお話を伺いました。

被災地の"今"をお届けする前に、まずネパールという国を取り巻く環境についての説明が必要かもしれません。ネパールは、エベレストを始めとするヒマラヤ山脈の玄関口として、また仏教にもゆかりの深い国として有名ですが、一方で今回の震災以前から支援が必要な国でした。また実際に日本を始め各国の政府や国際機関は多額の開発援助を行ってきました。

2015年7月撮影 カレラトック村付近の被災の様子
2015年7月撮影 カレラトック村付近の被災の様子

ネパールは、国連で後発開発途上国に分類されます。IMFの統計によれば、2014年の一人当たりのGDP(国内総生産)は日本のそれの1/50にも届きません。主要産業は農業と観光業ですが、海外送金〜いわゆる出稼ぎもGDP比の2割を超えます。また2011年のアジア開発銀行の資料によれば、国民の7割以上が1日2ドル未満で暮らす貧困層であるとされます。

後発開発途上国においては、道路や電気・水道といったインフラが未整備です。ネパールでは、道路状態が悪く、鉄道も国境沿いに約50km敷設されているだけ。こうした社会基盤の脆弱さは、緊急支援が遅れる要因となって被害を拡大させるとともに、復興・再建への道程を遠ざけます。

また電力に関して言えば、ネパールは慢性的に電力が不足しており、計画停電はダムの水位が著しく下がる乾季(毎年10月〜5月)に毎日8時間前後、時には1日14時間実施された年もあったと聞きます。加えて計画外の不意をつく停電が一年中、日に何度もあるそうです。私たち日本人にとって計画停電とは東日本大震災直後の一時的な非常事態でしたが、ネパールでは震災前からの日常なのです。

さらに後発開発途上国の多くがそうであるように、ネパールも内陸国です。石油や食料、医薬品といった必要不可欠な物資の入手が、港湾のある隣国の情勢に左右されることが多く、そもそも不安定であったのに加え、災害時等混乱時にはますます入手困難になります。

こうした取り巻く環境の中で、ネパール大地震は起こりました。

■ネパール大地震の被害状況

ネパール大地震の被害状況地図
地震発生時間 ①2015年4月25日11時56分 ②2015年5月12日12時51分
※いずれもネパール標準時
震源地 ①ゴルカ州バルパック村 ②エベレストベースキャンプのあるナムチェバザール付近、ドルカとシンドゥバルチョークの間
地震の規模 ①マグニチュード7.8 ②マグニチュード7.3
経済損失額 50億ドル(約6,000億円、ネパールの2014年におけるGDPの約1/4)
※2015年4月28日、アメリカ情報調査会社HISによる推定
死亡者数 8,600人以上 負傷者数:21,000人以上
※いずれも2015年5月27日時点、外務省発表
被災者数 約800万人(ネパールの人口の約30%)
※2015年4月28日国連発表

被災者支援期における課題とSeRVネパールの取り組み

私たちSeRVが行う災害支援の原則は「ニーズ・ファースト」、被災地や被災者が今必要としていることを第一に提供することです。

日本では1995年の阪神・淡路大震災以降、現地の社会福祉協議会やボランティアセンターなどが被災地のニーズを取りまとめるしくみが整えられ、初期の救命救急期に続く被災者支援期に、必要な支援活動にボランティアが参加しやすい体制がとられるようになりました。

ネパールでは災害支援のシステムが未整備であったのに加え、地震発生時のネパールは憲法も政府も暫定的なもののままだったこともあり、現地は混乱を極めました。

「どこを、直ちに支援すべきか?」
「何が、切に求められているか?」
「どうすれば、求められる物資が手に入り、被災地へ素早く安全に届けられるか?」

2015年7月撮影 カレラトック村付近の被災の様子
2015年7月撮影 カレラトック村付近の被災の様子

そうした中で、SeRVネパールの活動がはじまりました。SeRVネパールは、1回目の地震から約2週間後の5月10日に、現地の真如苑信徒によって発足された有志による組織です。もとよりネパールの人々には自助共助の精神があります。SeRVネパールのメンバーの多くは今回の地震の被災者であり、中には家を無くしてテント生活を余儀なくされている方が何名もいましたが、「もっと深刻な被害を受けた人がいるから」立ち上がったと言います。「現地の人が現地のために動いている」ボランティアであるのが大きな特徴です。

日本でのノウハウを聞きながら、ボランティアセンターが担うような、ニーズ調査や近隣団体とのコーディネートまで行ったことは特筆すべき点でしょう。メンバーがそれぞれのネットワーク―地元の人々とのつながりを活かし、被災した各地の人々や自治体のニーズを聞き取ります。それを委員会に持ち寄って情報を整理し、計画を立てて参加者を募り、支援活動を行っていきました。


ネパールを訪ねて実地調査した7月中旬、SeRVネパールの活動に2日間同行しました。支援から置き去りにされていた山間部の集落カレラトック村の78世帯に食料を、瓦礫に埋まったままだった古都サクーの共同水汲み場の瓦礫撤去を行い、また今回の地震で最大の被害を受けたシンドゥパルチョーク郡からの避難民キャンプでは医師による訪問診療と医薬品を提供しました。

被害の大きかったサクー
被害の大きかったサクー
被害の大きかったサクー
もっとも被害の大きかったシンドゥパルチョークからの避難民キャンプの一つ

活動は、基本的に休日に行われ、多いときには50名を超えるメンバーが参加。同じ国の人々同士、言葉や生活習慣、風習などが分かること、メンバーと人々の間に信頼関係が築かれていることが活動をスムーズにしていました。

カトマンズ市内も見て回りましたが、瓦礫撤去はある程度進捗し、落ち着きを取り戻しつつあるようで、物資の不足も感じられません。復興は緩やかですが、一歩一歩進んでいるように見えました。また日本ではニュース番組で、世界遺産の寺院が崩壊するシーンが繰り返し映し出されましたが、カトマンズ盆地に点在する世界遺産群のすべてが崩れ落ちたわけではありませんでした。その多くは残っており、仮補強されていました。

ネパールを発つ日には、念願だった新憲法が間もなく公布されそうだというニュースが飛び込み、先の明るさを感じながら、帰途につきました。

■8月までのSeRVネパールの活動一覧(計のべ329名)

活動日 活動内容 場所 ※ 人数
5月10日 SeRV Nepal 発足 カトマンズ市
5月23日 150世帯に米2600kg、豆300kgを配布。 ラスワ郡ダイブン村 15名
5月30日 雨期を前に水源確保のため、土砂やゴミで埋もれていた水路の清掃、倒壊した家屋の撤去。 パタン市ブンガマティ村 80名
6月4日 住民の要望を受け、他団体と合同で住宅の建築資材となるトタン48軒分と毛布60枚を配布。
SeRVネパールは38軒分のトタンを用意。
バクタプル市、
タータリ村
9名
5月31日~
6月15日
学校の仮校舎建設のための資材運びを手伝う(2校) ゴルカ郡フィナム村、
アルボート村
5名
6月13日 地元の中学生と共に市内の清掃を行う。
散乱したレンガや木材などを運搬。
パタン市ハリシッディ村 69名
7月4日 35世帯分の米、豆類、毛布を配布。 チトワン郡シッディ村 19名
7月6日 他団体と合同で住宅の建築資材となるトタン48軒分を配布。SeRVネパールは33軒分のトタンを用意。 ドラカ郡パンチカル村 6名
7月17日 78世帯に米1560kg、豆156kgを配布。
(1世帯あたり米20 kg、豆2 kg)
カブレ・バランチョーク郡カレルトク村マネガウ 13名
7月18日 地元の学生達とともに、地域で長年使われている共同水汲み場の清掃、泥やがれきの運び出し。 カトマンズ市サンク村 53名
7月18日 シンデュパルチョーク郡から避難し、カトマンズ市内のテント村で暮らす約190世帯900人のうち、希望者にヘルスキャンプ(医師、看護師による無料診療)を実施。 カトマンズ市ボーダナート村 17名
8月8日 市内の道路の清掃活動を実施。倒壊家屋が多く、地元のお祭りで山車が引かれる道路にゴミや瓦礫が山積していたことから、地元市役所の協力も得て住民40名と共に活動。 バクタプル市 43名

被災地の今と、世界の今と

11月中旬に現地カトマンズ在住の方から被災地の"今"を伺いました。

9月20日、新憲法が公布されたときは、7年越しでようやく決着したこともあり、「カトマンズ市内はお祝いムード一色」だったそうです。「これで復興に弾みがつく」と未来を感じたとも。しかし厳しい状況が続いているようです。

まず、再建を担うはずの復興庁が2015年11月30日現在、未だ設置されておらず、関連法案も手付かずの状態で、6月の「ネパール復興に関する国際会議」にて各国・機関が表明した総額約5,300億円の支援金の多くは、受け皿がなく宙に浮いたままになっています。

また、ネパール南部のインドとの国境付近では抗議闘争が激化。トラックやタンクローリーが入国できなくなり、物流の多くをインドからの陸路に依存してきたネパールは、燃料や食料、その他様々な原材料がほとんど輸入できない状態になり、深刻な物資不足に陥りました。

2015年7月撮影 インドとの交易の宿場町ムグリンの様子
2015年7月撮影 インドとの交易の宿場町ムグリンの様子
釈尊生誕の地ルンビニ 写真1
釈尊生誕の地ルンビニ
釈尊生誕の地ルンビニ 写真2

ガソリン不足はまた、子供たちのスクールバス運行をストップさせ、学校を臨時休校にさせています。「地震の後、最近になってようやく開校にこぎつけた学校もあったのに...」。また、建設資材も不足しているため、地震で崩れ落ちた校舎の復旧も進まず、トタン屋根を載せた仮校舎のままだそうです。

また、外貨獲得の柱である観光業にも大きな影を落としています。ネパール観光のベストシーズンは、空気が澄み渡り、ヒマラヤ山脈を一望できる乾季から寒さが厳しくなる直前の11月までと言われていますが、「今年は例年の2割」だそうです。地震による被害に加え、今回の燃料不足で、タクシーや観光バスはもとより、ホテル・レストランの運営や空路にも影響が出始めており、観光客に敬遠される要因になっています。

震災の爪痕が残るダルバール広場 写真1
震災の爪痕が残るダルバール広場
震災の爪痕が残るダルバール広場 写真2

ネパールでは、まもなく真冬を迎えます。首都カトマンズの気温は年間を通して東京とさほど変わりません。最も寒いのは1月で、朝は氷点下になることもあります。さらに山岳地帯へ行くほど、冷え込みは厳しさを増します。

カトマンズの一般家庭の多くは、真冬でも暖房器具を用いることはそれほどなく、重ね着をして寒さを忍ぶそうです。テント生活を強いられている避難してきた方は大丈夫でしょうか。 「避難民が減ったわけではない」「家が余震で崩壊することを恐れて外で寝ていた人たちが、家に戻っただけで、家を失って避難してきた人たちはテント生活を続けている」とも言われます。「そうした人たちは、テントで暮らして半年になります。精神的にも肉体的にも限界に近いはずです。医薬品も不足する中、注意して見守る必要があります。」健康状態が懸念されます。

世界遺産ボダナートの修復の様子
世界遺産ボダナートの修復の様子

以前から暖房器具を用い、燃料に灯油やプロパンガス、電気を使ってきたホテルなどの施設に加え、昨今は、都市部のオフィスや一部家庭においても暖房器具の使用が増えていたそうです。しかし今日の燃料不足により、それらはもはや期待できず、これから計画停電も始まります。
「先日、政府が薪を売り出した」と教えてくれました。薪は、調理の燃料としてネパールの家庭では一般的です。しかし、調理にプロパンガスを用いていた料理店も燃料不足から薪を使うようになり、不足気味になってきました。暖房に用いる家庭も一層増えることでしょう。「購入できる量に制限がありますが、今のところ数時間並べば購入できる」と言います。でも働いていると何時間も並ぶことは難しいようです。

首都カトマンズの様子 人々の生活には活気があふれる
首都カトマンズの様子 人々の生活には活気があふれる

大地震、そして物資不足。気が滅入ってしまいそうな状況ですが、「むしろ一度に起こってくれてよかった」ととらえるネパールの人たちも少なくないと聞きます。ネパールでは公式の暦としてピグラム歴を採用しており、西暦でいう4月14日から新年が始まりました。そしてその直後に大地震が起こり、新憲法にまつわる抗議抗争、物資不足と続いているため、「今年は苦難の年。でも来年からはきっと良くなる」と考えているそうです。

むしろこの苦難の年を、ネパールの人々に根付く自助共助の精神で過ごしている様子も伺えました。ガソリン不足が続く中、「出かけるときには声を掛け合い、誘い合ってバイクに3人乗り、時には4人乗りする」そうです。また、「多くのバスが屋根の上にまで乗客を載せている」と聞きます。これらはもちろん交通違反ですが、警察も目をつぶっています。

ルンビニ 釈尊が出家したとされるカピラバストゥ城跡
ルンビニ 釈尊が出家したとされるカピラバストゥ城跡

大切なことは希望を忘れないこと、そして助け合うことなのだという基本を、あらためてネパールの人々に教わりました。

今、世界の目も、国際報道も、中東からヨーロッパ諸国に注がれているのではないでしょうか。先行きの見えない、かつグローバルな問題です。一方で、それらとネパールのことを秤にかけることはできません。どちらも当事者一人ひとりにとって、真っ先に解決したい、切実な問題だからです。そしてこの世界には、私たちの目に入っていないだけで、解決の急がれる問題がそこかしこにあります。

そうした中で、私たちSeRVがお手伝いできることは、わずかです。大切なことは、忘れずに目を向け続けることだと思います。できることを見つめ、支援活動を続けていきます。

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